現代住宅併走

2022年 新春号山を背に水田を前に
作品/「高床の家」
設計/福島加津也 + 中谷礼仁/千年村計画、福島加津也 + 冨永祥子建築設計事務所
文/藤森照信
写真/普後 均


貴重な体験をした。中谷礼仁と福島加津也が中谷の家として〈高床の家〉を建てたことを知り、見に出かけた先には予想もしない風景が広がっていた。
上野から常磐線に乗り、土浦で車に乗り換えて向かうと、長年続くこのシリーズに一度も登場しない、ということは都市圏や別荘地でも地方の町でもない、さらに奥のほうに位置する辺りにその家はあった。
段差なく広がる田んぼのなかを進むと、青空を背に小山が見えはじめ、近づくと小山の付け根に農家が集まり、さらに近づくと、草葺きの家や白壁の土蔵も混ざっている。『日本昔話』で描かれる古い日本の村の光景が、個々の建物の仕上げを変えながらも、集落の骨格と建物の概形はそのままに今も生きている。
中谷には“千年村”というおもしろい調査がある。『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という平安時代後期に成立した記録にのる全国各地の集落を「千年村」と呼んで現状を調べる研究で、日本の村についてこれほど長いスパンで取り上げた建築史家はいない。
このシリーズで5年前に紹介した「三層の家」(『TOTO通信』2016年夏号)も中谷が自分で手がけた実家で、場所は浅草の下町のドマンナカにあり、今度は一転、田舎のドマンナカへの転身、となると訪れずにすますには惜しい。
よくぞこのような場所を見つけたものだと感心しながら、中谷に案内されて小高い裏山に上りはじめると、坂道の途中に古い石仏や墓が現れ、さらに上ると、そこは古墳だった。前方後円の典型的形式をとり、かつ、関東圏第二の大きさを誇るという。


村は今は石岡市に属し、石岡には奈良時代、常陸国の国府が置かれ、国府の長たる国司は、奈良から常陸に下るとき、まず現在の東京方面に至り、さらに今よりずっと広かった霞ヶ浦を船で渡り、この村の近くにある湊(現在の神社の位置)に上陸し、国府に赴任したという。
この家の立つこの村は、“千年村”どころか奈良時代に、さらに古墳時代にまで至る。本当に現在の集落がそこからずっと続いているかは定かでないが、歴史家の想像力はそこまで届く。
ここまで考えてやっと、この家の本質が見えた。
田んぼのなかから遠望したとき、田んぼの稲穂の面より家が少し浮いて見えたし、近づくとはっきり浮いている。家の名も〈高床の家〉と直球。
弥生時代、中国南方の長江中流域に発した水田稲作が、どこをどう通ってか日本列島に上陸したとき、一緒に伴って入ってきた物質文化はふたつあり、ひとつは鉄器(青銅器を含む)、もうひとつは高床住居だった。
水田稲作、鉄器、高床住居の3つが組をなして、狩猟採集と石器と竪穴住居の3つからなる縄文時代の日本列島に上陸し、時代を縄文から弥生へと大きく動かし、その成果として古墳時代が生まれ、その後半に大王(天皇)が出現し、やがて国家が生まれ今の日本に至る。
中谷は、こうした大きな時間の流れのなかで、まず千年村に着目し、さらにさかのぼり古墳時代へ、さらにさらにさかのぼって弥生時代の高床住居を今に実現した、にちがいない。
弥生時代への着目という点では、建物の前の地面の様子もおもしろい。一見すると雑草の原のように見えるが、ちゃんと観察するとカボチャや豆類が植えられている。弥生時代は水田稲作とともに畑作も始まっているから、家の近くに畑、畑の向こうに水田という弥生的田園風景が企画されているが、でも農業の経験を欠く人物の企画であることは明らか。
私なら、水田の隣に里芋を植えただろう。信州の田舎はそうしており、なぜかが長らく不明であったが、のちに水田と里芋はコンビとして長江流域に出現し、日本に上陸したとの説を知り、納得した。


こういう話を続けるとキリがなくなるから、〈高床の家〉の建築に移ろう。
私の予想した高床住居と、床を支える下の構造がまるで違っていた。弥生時代の高床住居は4本の掘立柱の上にのっていたから、床下はもっとスッキリし、モダンな空間となっていた。なのに、この高床は4本柱に斜材(ブレース)を入れ、それも柱に外接して入れ、柱の外に延びる床を支え、さらに上に延びて壁を支え、その端が壁から顔を出す。筋交を用いることによって床下の外周柱をなくして使いやすくする意図が設計者の福島にはあったということだが、造形が勝ちすぎている。
中谷が書いた文によると、この構造を模型で一目見て「びっくりした。私はこの計画が福島側の手に移ったことを悟った」というから、私と同じように違和感を抱きながら、しかし、その方向にのっていくことを決めたのだろう。


そうまでして中谷が高床でやりたかったことは何かと訝しく思い、上階に上がり、広間の床に座って水田のほうを眺めて理解した。この高さに上がって初めて、“山を背に水田を前にして自分がある”ことを感じることができる。水田の広がりに誘われて広間から縁へと移り、眼下に目をやると初めて稲の生育の様子もわかる。
広間から縁へと移り、水田から稲への視線の変化を経験して、桂離宮の月見台の演出を思った。まず室内から竹製の月見台におぼろに映る月の姿に気づき(竹には月が映るかどうかを高過庵で試し、確かめている)、月影に誘われて月見台に水平移動すると、月は月見台から池の面へ移り、水と月と竹から成り立つ“月の桂”の演出は完成する。
この高さを、この高さからの光景を中谷は欲したのだ。
建築の高さについて、高過庵でのあれこれを思い出す。伊東豊雄は、イタリアでのパラディオの住宅を例に「賢者の高さ」について語ってくれた。町より少し高い位置に住むのが賢者の知恵だという。私は、ブリューゲルの絵の視点が地上より少し高いことの秘密を、高過庵(たかすぎあん)(2004)から畑仕事に勤しむ人の姿を眺めて知った。地上より高く、神より低く。中谷は、高過庵の高さを、「霊のただようあたり」、と評した。
浅草の「三層の家」について、隠れたテーマは、地に漂う霊をどう上へと導くかです、と語っている。とすると、地から上へと抜けた霊は、5年して、山を背に水田を前にした高床の高さに漂い着いた、ということか。
漂い着くとそこは弥生の里だった。

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中谷礼仁Nakatani Norihito
1965年、東京の三ノ輪に生まれ、早稲田大学で建築史を学び、現在は早稲田大学教授。建築史という分野は、初代の伊東忠太このかた歴史研究と建築設計の両方にまたがる者が時々現れるが、建築の設計という行いが過去の成果を栄養とすることを思うと、当然のあり方にちがいない。歴史研究を続けると、「建築とは、自分とは」という本質論が歴史の表ににじみ出てくるが、中谷はそういう辺りにある。
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福島加津也Fukushima Katsuya
1968年神奈川県生まれ。90年武蔵工業大学工学部建築学科卒業。93年東京藝術大学大学院美術研究科修了。94~2002年伊東豊雄建築設計事務所。03年より福島加津也+冨永祥子建築設計事務所共同主宰。東京都市大学工学部建築学科教授。
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藤森照信Fujimori Terunobu
建築家。建築史家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。工学院大学特任教授。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。