古写真でみる建築家のアトリエ

アトリエ35Sの風景。左手前にいるのは、シャルロット・ペリアン。前川國男、坂倉準三、吉阪隆正らもここに通った。 ©F.L.C./ ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E 4700

2022年 夏号所員の仕事を素早くチェックできる
アトリエ35S

古写真を発掘し、昔の建築家のアトリエをのぞく。この場所で、名作が生まれた。

記事内の写真と図面/©F.L.C./ ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E 4700
  • ル・コルビュジエLe Corbusier

    ル・コルビュジエ氏の画像
サヴォワ邸の平面図 ©Plan FLC 19701

サヴォワ邸の平面図。スパン割が5.00mから4.75mへと変更されたときの図面。

忙しいボスが短い時間でスタッフと接触し意図を伝えるためのプロムナード。

ジリリリリーーン。
「もしもし、アトリエ35Sです」
「私だ。今、サヴォワ夫人と打ち合わせたのだが、5%ほど減額しなければならないことがわかった」
「また、ですか。すでに4案目ですが……」
「プランは今のままがいいそうだ。ゆえに、全スパンを5%小さく……そうだな、5mではなく、4.75mにすればいい。ただ、プロポーションは崩さぬように至急修正してくれたまえ! 明日チェックするから」

サヴォワ邸 ©Paul Koslowski

サヴォワ邸。ピロティや水平連続窓などのル・コルビュジエの設計思想が明快に実践されている。

 ここはパリ市内にあるル・コルビュジエのアトリエである。このシーンは、パリ郊外に立つサヴォワ邸(1928-1931)の縮小案をスタッフに指示する電話が鳴った瞬間だ。若い頃から各地を飛びまわって活動していたル・コルビュジエは電話で頻繁に指示を出してきたという。ここで働いていた吉阪隆正は「突然アトリエに電話がかかって来た。忘れてしまわぬうちに所員に記録させ、その発展を研究させて置くのだ」と記している(*1)。ル・コルビュジエの哲学に触れようと集まった世界中の学生、ドラフトマン、若き建築家たちがその電話から遠隔で指示を受けたことだろう。
 このアトリエは、フランス・パリ市内のセーブル通り35 番地の修道院の一室にあった。ル・コルビュジエは生涯ここを離れることなく、この「アトリエ35S」と名づけられた場所で、すべての作品が生まれた。古写真を見ると、左手に修道院らしい縦長のアーチ状の開口部があり、右側の壁面に沿って幅1500㎜程度の製図板が一直線に整列している。窓から入射する光が手や定規の影をつくらないよう留意された今見れば基本的な製図室の机の配置だ。窓際には奥行きが900㎜程度の机が並び、事務所の繁忙期にはここも製図台となり、ドラフトマンが陣取っていた。
 そしてこのアトリエ35S のルールは3つ。ひとつは時間を守ること。ふたつ目は質素であること。みっつ目は、ル・コルビュジエのスケッチに忠実であること。
 なぜか。まず、時計師の息子であるル・コルビュジエは時間に几帳面だったのだ。「正確さは必要なものです。(中略)私の一日が諸君とともに働くことで始められるように、諸君が9時に出勤してくれることを望みたい」と言い放ち、朝から製図板の前で出社を待ち構えていたこともあったという。実際は本人がいつもいたわけではないが、彼がいることを想定して毎朝出勤するときのスタッフの緊張は想像にかたくない。初期の番頭であったピエール・ジャンヌレも目を光らせていたという。

ロンシャンの礼拝堂の模型 ©Lucien Hervé

ロンシャンの礼拝堂の模型。その素材に、ボール紙、ピアノ線、そしてトレーシングペーパーのような半透明の用紙が用いられている。

 ふたつ目の極度の節制もボスの性格によるもの。電話料金、材料費、鉛筆やトレーシングペーパーの乱用は厳しく管理されていた。ル・コルビュジエは新品の鉛筆やシャーペンに憤慨し、つねに使い古しの鉛筆を隠しておく必要があった。また、模型はル・コルビュジエの要求に図面で応えられないときにつくられる応急処置的な用いられ方に限られた。有名なロンシャンの礼拝堂の模型も、ボール紙、ピアノ線などの代用品によってつくられたものなのである。
 みっつ目のボスのスケッチに忠実であることは、晩年の番頭であったヴォジャンスキーの回想が実情を伝えてくれる。つまり、スタッフが「新たにつくり出すものはない。ただ、仕上げればよい。ル・コルビュジエはこのアトリエから発するすべてのものを立案するただひとりの人間」だったという。あらためて古写真を見てみると、中央の長い通路は、ル・コルビュジエが端から端まで図面を確認するためのプロムナードであり、気になる図面やプロジェクトを描いているドラフトマンを横からのぞき込むことができ、直接指示が出せるようになっていた。時にはスケッチブックの切れ端を、時にはメトロの切符を、時にはテーブルクロスを手渡し、それらに描かれたスケッチをもとに図面が描かれていく。難解なものは、数人の所員でにらめっこし「仕上げ」ていった。
 このような厳しい環境で切磋琢磨した世界中の精鋭たちは母国に戻り、それぞれの国でル・コルビュジエ建築を実践したことで、世界中の近代建築は深化したといえる。ル・コルビュジエの哲学を求めて集った若者たちに彼が与えたのは、賃金ではなく「ときおり」直接受けることのできる「私からの指導」であり、忙しいボスが短い時間でスタッフと接触して意図を伝えなければいけないアトリエ35Sの設計体制もまた、近代の建築アトリエ像として広まったのではないか。

*1 吉阪隆正『ル・コルビュジエと私』勁草書房、1984年、p.139

  • ル・コルビュジエ氏の画像

    ル・コルビュジエLe Corbusier

    本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1887年スイス、ラ・ショー=ド=フォンにて生まれる。若くしてパリに行き、東方への旅などを経て1922年に従兄弟のピエール・ジャンヌレと事務所を構え、1924年からパリ市内のセーブル街、通称「アトリエ35S」で活動を開始する。生涯ここを動くことがなかった。場所は現在のデパートである老舗ボン・マルシェの斜め向かいに立っていた修道院の一室であったが、その修道院は残念ながら現存していない。1965年逝去。
    画像はル・コルビュジエの若年期のポートレイト。トレードマークである黒縁の丸眼鏡は、彼が生涯貫いたスタイルのひとつ。
    ©F.L.C./ ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E 4700

  • 山村 健氏の画像

    山村 健Yamamura Takeshi

    やまむら・たけし/1984年山形県生まれ。2006年早稲田大学理工学部建築学科卒業。06年バルセロナ建築大学留学。09年早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。12年同大学院博士後期課程修了。12~15年ドミニク・ペロー・アルシテクチュール勤務。16年YSLA Architects設立。早稲田大学専任講師などを経て、20年東京工芸大学准教授。博士(建築学)、一級建築士。